
いきなりですが、おじさんは助っ人外国人選手が大好きです!
言葉の壁や食文化など、普段の生活でも大きな違いがあるでしょう。グラウンドでも、配球や戦術の違い、長時間の練習やサインプレーなど、覚えることは山程あるでしょう。しかも、即戦力として期待され、結果が出ないとすぐに叩かれる。また、外国人枠の問題などもストレスになるはずです。
それでも阪神に入団してくれた、すべての外国人選手におじさんは感謝しています。みんな本当にありがとう!
おじさんはすべての助っ人外国人選手のことを愛していますが、なかでもとくに記憶に残っている選手を紹介していきたいと思います。
第1回の今回は、ジム・パチョレック選手です!
・ジム・パチョレック選手について
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ジム・パチョレック選手について
NPB入団まで
1960年6月7日にアメリカ合衆国のミシガン州デトロイトで誕生。1981年のミシガン大学在学中に「日米大学野球選手権」でアメリカ代表に選ばれ、日本で試合をしたことがきっかけで、日本でのプレーを意識するようになります。
横浜大洋ホエールズ時代
本塁打よりも打率を重視するスタイルと、アメリカで同僚だったカルロス・ポンセ選手の進言から、1988年に横浜大洋ホエールズが獲得。
前評判通りのシュアなバッティングで、初年度から打率.332(第2位)、17本塁打、76打点に加え、最多安打(当時は表彰なし)を記録するなど大活躍。外野手としてベストナインも獲得しました。
翌年の1989年度も打率.333(第2位)、1990年度には打率.326で念願の首位打者し、1991年度も打率.310と見事な安打製造機ぶりを発揮。しかし、もともとシュアな打撃に目をつけての獲得だったはずが「本塁打が少ない」という理由で横浜大洋ホエールズを解雇されます。いやいや、今なら考えられないことですよ!? こんだけ数値残してるのに。
ただ、既にラリー・シーツ選手の獲得が決まっていたというチーム事情も影響しているようですが…。
阪神タイガース時代
さて、我らが阪神タイガースはというと…当時は暗黒時代の真っ只中。
| 年度 | 監督 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1987 | 吉田 義男 | 6 | 130 | 41 | 83 | 6 | .331 |
| 1988 | 村山 実 | 6 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 |
| 1989 | 村山 実 | 5 | 130 | 54 | 75 | 1 | .419 |
| 1990 | 中村 勝広 | 6 | 130 | 52 | 78 | 0 | .400 |
| 1991 | 中村 勝広 | 6 | 130 | 48 | 82 | 0 | .369 |
直近5年間で5位が1回あっただけで、残りは全部最下位。勝率も5試合やって2試合勝てるかどうかという感じ。今では考えられないですが、当時は投手陣の方が不安材料になっていて、1991年度のチーム防御率は4.37でした。
当時、甲子園にはまだラッキーゾーンが残っていました。そもそもラッキーゾーンとは、「本塁打を出やすくする」という理由で、通常のフェンスより約20メートル前に設置されていたもの。しかし、野球用具の品質の向上や、より広い球場が建設されはじめたため、1991年を最後にラッキーゾーンは撤去されることになったのです。
さまざまな条件が重なり、本塁打よりも打率を残せるパチョレック選手に白羽の矢が立ちます。もともと阪神で活躍していた友人のトーマス・オマリー選手からの誘いもあり、1992年に阪神タイガースへ入団。
初年度から打率.311を残したことに加え、22本塁打、88打点と2部門でキャリアハイを記録。リーグ最多となる159安打、14勝利打点と期待に応え、一塁手部門でベストナインとゴールデングラブ賞にも輝きました。しかもチームも久々のAクラスとなる2位に!
当時、中学生だった筆者は、この年の阪神の強さに衝撃を受けていました。パチョレック選手・オマリー選手・八木選手が主軸を務め、亀山選手や新庄選手ら若手も台頭。終盤まで負けていても最後にひっくり返してくれると信じて中継を見ていました。こんな感覚はいままでありません。そして、来年こそ優勝するものと信じていたのです。
1993年は、阪神が新助っ人として郭李建夫選手を獲得。当時は外国人選手を3人以上出場選手登録できなかったため、パチョレック選手・郭李選手・オマリー選手の頭文字を取った、俗に言う「PKO問題」が発生。
パチョレック選手は故障もあり、思うような成績が残せなかったものの、ファン投票でオールスターに出場するほどの人気ぶりを発揮。しかし、故障には勝てず、シーズン途中に現役引退を表明しました。
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まとめ
穏やかで真面目な性格のパチョレック選手。広い甲子園にフィットした、高い打率と長打力を兼ね備えた素晴らしい選手です。しかも人格者! 今こそ彼のような選手が必要なのに…と思わずにはいられない! その後、登場するマット・マートン選手に彼を重ねたのは筆者だけではなかったはずです。繰り返しになりますが、本当に素晴らしい選手でした。
…ちなみに1993年度、阪神は4位。その後、2003年に優勝するまでAクラス入りが叶わないとは、当時の筆者は知る由もありませんでした…。
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NPBでの成績
| 年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 打率 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988 | 大洋 | 130 | 537 | 497 | 165 | 17 | 76 | 6 | 30 | 5 | .332 | .509 | .373 |
| 1989 | 大洋 | 118 | 473 | 435 | 145 | 12 | 62 | 2 | 33 | 1 | .333 | .503 | .380 |
| 1990 | 大洋 | 133 | 562 | 527 | 172 | 17 | 94 | 3 | 26 | 5 | .326 | .503 | .361 |
| 1991 | 大洋 | 114 | 487 | 442 | 137 | 11 | 75 | 0 | 31 | 4 | .310 | .441 | .353 |
| 1992 | 阪神 | 129 | 562 | 512 | 159 | 22 | 88 | 0 | 40 | 4 | .311 | .504 | .361 |
| 1993 | 阪神 | 74 | 297 | 263 | 64 | 7 | 36 | 1 | 32 | 0 | .243 | .376 | .323 |
| 通算 | 698 | 2918 | 2676 | 842 | 86 | 431 | 12 | 192 | 19 | .315 | .482 | .361 |
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