センター分けの「センター」と申します。簡単に自己紹介をさせてください。
ソフトボールがきっかけで阪神タイガースのファンに
小さな頃から外で疲れ果てるまで遊びまくるタイプではなく、家でテレビゲームをするのが好きだった私。当然、運動神経も鈍く、体育の成績はいつも5段階評価の2ばかり。
スポーツにもまったく興味がなかったのですが、小学生高学年の頃、何故かソフトボールの大会に参加することになってしまい、練習に明け暮れる日が続きました。練習してもなかなかうまくならず、「うまい人はどんなプレーをしているんだろう」と思い、ソフトボールに近いと思った野球の試合を観るようになりました。
関西出身の私。地元では「サンテレビ」という有名なテレビ局があり、阪神タイガースの試合を試合終了まで放送してくれるのです。それを繰り返し観ているうちに、自然と阪神タイガースのファンになっていました。
世はまさに大暗黒時代!
しかし、私が阪神ファンになったのは1990年。
中村勝広監督が就任し、前年度の本塁打王ラリー・パリッシュ選手をヤクルトから獲得。岡田・真弓・木戸・平田・中西などの1985年日本一メンバーに加え、円熟期に入った田尾や、和田・八木など若手の奮闘もむなしく最下位。オフには大型トレードで血の入れ替えを図るも、獲得した選手の活躍は目立たず、放出した選手が活躍するという結果となり、翌年も最下位となりました。
関西でありながら、学校でも阪神ファンより巨人ファンの方が多く、「阪神は弱い」「応援しても意味がない」とまで言われましたが、逆に「弱いからこそ応援する意味がある」と主張し、私は応援を続けます。
しかし、やっと光が見えてきました。甲子園のラッキーゾーンを撤去し、助っ人ではトーマス・オマリー、そして大洋ホエールズからジム・パチョレックを獲得した1992年。亀山・新庄・田村など若手の活躍もあり、最後まで優勝争いに加わるものの惜しくも2位。それでもファンは来季の優勝を信じていました。
…しかし、ここからが真の暗黒時代の始まりだったのです。
右のエースだった野田浩司を放出し、最高のスイッチヒッターとして名高い松永浩美を獲得。放出した野田は移籍1年目に17勝で最多勝を獲得し、松永は1年でFA宣言。阪神を去っていきました。
打率は高いものの、長打力不足を理由に解雇されたトーマス・オマリーが、移籍したヤクルトで31本の本塁打を記録。1995年には、サンテレビの60周年を記念して「今季の阪神60勝はいつ?」というクイズを出したものの、多くのファンが「できない」と回答し、結局46勝しかできずに多数の正解者を出すなどの伝説も作りました。マイク・グリーンウェルの「神のお告げ」もありましたね…。
結局、星野仙一監督2年目の2003年に優勝するまで、10年連続Bクラスという長い暗黒時代が続きました。第1次岡田彰布監督時代の2005年にも優勝を経験し、そこからもいろいろありましたが、第2次岡田彰布監督時代2023年には38年ぶりの日本一を達成しました。まさに阪神ファン冥利に尽きる瞬間でした。
そこは代打なんちゃうの?
正直なところ、私が生きている間に阪神が日本一を達成するのは無理だろうと思っていましたが、見事に成し遂げてくれたので、阪神には感謝の気持ちしかありません。もうどんな試合をしても「日本一になれたからいいか」とまで思うようになりました。
それでも試合を観ていて「そこは代打なんちゃうの?」「代走出すとこやん」「いや、そこは内角ちゃうやろ?」みたいな場面は多々あります。それは、やっぱり阪神が好きだから。もっと強くなってほしいから。
私は野球の経験があるわけでもないですし、流行の打撃理論をしっているわけでもありません。あるのは野球漫画から学んだ偏った知識、そしてプロ野球への愛だけです。
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